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復讐からは何も生まれない!と言われて。【ブラックパンサー ワカンダフォーエバー】

復讐からは何も生まれない!
恋人を、友を、家族を、血は繋がっていなくとも家族以上に親しかった、愛した誰かを失った時。その人を殺した憎き相手を殺そうとする人物を止めるためによく聞く言葉だ。
よく聞く?というか、もはやテンプレ化されている言葉だ。その後ろに、お前に何がわかる!!!と続くやつだ。
ほんとうにその通りだと思う。今刃を握り血走った目で人を殺そうとするその人と、その人の愛した人との間に何があったかなんて、その二人、当事者にしかわからないことだ。その二人以外に入る余地はないのだ。愛した人が同じ人であったとしても、その人との関係性はそれぞれ異なる。その人をどのように思っていたかが違うように、その人をどのように喪に服すかも違うのだ。その形が復讐だっただけで、何かを生み出そうとしている訳ではないのだ。許せない、私の愛しい人をこの世界から、私から奪ったことが許せない、それ以上でもそれ以下でもないのだから。

私はMCUシビルウォーが一番好きだが、シビルウォーブラックパンサーの関係性がとても好きだ。シビルウォーだけ見ると、ティチャラが何故父を殺した人間を許したのか分からない。何にも変え難く、愛というより敬愛という最上級の想いを持っていた父を、殺した人間をだ。シビルウォー冒頭では、目の色を変えて、それこそ手段を問わず殺そうとしていたのに。ブラックパンサーを通して、自分の中の憎しみにどう向き合うか、自分の憎しみは相手からどう見えているのか、自分にとって復讐は何の為の手段なのか、それに向き合った結果がシビルウォーに現れている。ただ、それが、向き合いきれていないトニースタークと対比される様が残酷なのだ。厳しい雪山の中で相手を許したチャカと、復讐の炎が滾り相手にひたすら矛先を向けるスターク。私たちは一つの父を失った憎しみに対して、そんな結論を見ていた。

だからこそ、理解しているのだ、視聴者としての私たちは、ティチャラもラモンダも自分の為に大事な人が人を殺すところなんて見たくないし、そんなことしても何も変わらないことを。復讐は新たな復讐を生むだけだと。
ただ、シュリは違う。たしかに共に戦った、共にあの時代を生きていた。でも、自分の因縁と戦い、自分が復讐の矛先にあった、そういう経験をし、自分の復讐心と向き合ったティチャラではない。彼ではないのだ。

ブラックパンサーでその葛藤を見てきたいち視聴者としては、シュリがそんな復讐にかられるシーンを見ているのが辛かった。そして何より、きっと草原で、やっと母と分かり合えるのだとハッピーエンドを期待していたので、ハーブを飲んだ後の瞬間はショックなことこの上なかった。(でも、前作でキルモンガーが父と会ったのは父が死んだ場所=草原ではないのだから、シュリがあの王の間から現れた瞬間肝が冷えた)キルモンガーが諭してくれる訳でもなく、あの時間は本当に辛かった…

だから、何をきっかけに自分の中の復讐心とケリをつけるのだろう、そこがすごくドキドキしていた。だって、同じように復讐は新たな復讐を生むだけだと気付かされて復讐しないだけじゃ、前作と同じことを違う人物でやっただけじゃないか、と。でも、シュリの出した答えは『自分の復讐の為に民を巻き込んではいけない』だった。シュリは研究自体がきっとそもそも大好きだろうが、母に何をしてるか聞かれたとき未曾有の危機が来ても国を守れるように、と国を守ることを考えていた。母と同じように、元来この国が、民が愛おしく、大好きなのだ。パンフの中で、ナキア役のルピタニョンゴが、『ワカンダはそもそもどういう存在?』という問いに対して、『ワカンダは居場所を象徴していると私は感じてるんです。〜誰にでも、それなりのコミュニティがあるものですよね。そしてコミュニティであるはずのものが、脅威となったり味方になったりします。〜』この表現がすごく正しいと思っていて、日本で"地元"とか"故郷"というと、良くないイメージ、縛られているようなイメージを描きがちで、それをワカンダに私は投影してしまっていたかもしれない。それよりもっとフリーダムで、たとえば良く遊ぶ友達3人組、とかそういうレベルの話、というと軽くなるかもしれないが、ここにいると自分として振る舞えるという一つの場所、という意味合いだ。シュリは、もちろん世界のいろんな場所のことが好きだけど、このコミュニティのことが好きなんだと思う。しきたりはめんどくさいし、古臭いかもだけど、でもここが好き、だから守りたい。しかもその思いを敵であるネイモアにも見た。そういう解りあい方をこの映画の中で見せたのはいいなと思った。シュリが兄の死を、母の死を、復讐という瞬間的にスカッとするもので昇華させない、丁寧に丁寧に受け入れていく様を描いていくところは、私たちが俳優としての彼を失った悲しみ(というとすごくあれなのだが)を昇華させてくれる時間として有難い時間だと思った。

先ほど、"しきたりはめんどくさい"と言ったが、このアンサーが出ているのもこの作品の愛おしさだと思う。
私もしきたりはめんどくさいと思う方だが、多くのしきたりはこれまで様々なことを良き方向に導こうとして決めたルールであり、それが現代まで変わらなかったからたまたまめんどくさく感じているものだと思う。今合理的理由がないだけで、昔は合理的理由があった、ということだ。だから、それを100%否定する必要はないし、信じるものを愚弄することは違う、と個人的には思う。この世界では、祖先に会える草原に行ける、という不思議が、信仰によってか、ハーブの力によってか、実際に起こる。祖先の行先への信仰が、実際に自分に返ってくる。母が死ぬ前に自分が否定したそれは本当に有ったのだと突きつけられる。そこから、ラストシーンで、母の言うように喪服を燃やすのだが、風は感じても(おそらく)母の温かみも兄の優しさも肩には感じることなく時が過ぎていく。それを小馬鹿にしたようなシュリの笑顔と涙にすごく胸が苦しくなった。ここでこんな対比を見せられると思っていなかった。でも、そんか肩を見透かすように現れたのはトゥーサンだった。祖先はここには寄り添ってくれないかもしれない、死んだ者なのだ、この世からはもう願っても会えないのだ。でも、こうやって命を継ぐものがいる、脈々と受け継がれるワカンダの血がある、自分の愛したものは生き続けるのだ、そう確信させてくれるエンドはとても美しいと思った。

本作初登場のリリは魅力的ではあったが、まだ愛せる!までは行かなくて、それこそシビルウォーで初登場したスパイダーマンを思い出した。なんかすげぇ助っ人。笑
これからきっとMCUに欠かせない存在になってくれるんだろうなと思うし、シュリとの姉妹感溢れる雰囲気がまた見れると嬉しいなと思う。

ティチャラ、チャドウィックボーズマンが生きていたら、どんな作品になっていたんだろう。彼はどんな風に国を導いたのだろうと、ついつい想像してしまう。だけど、この作品はそれに関わらずとても大好きな作品だ。
でも、もし生きていたら、シュリと笑い合う姿がもう一度見たかったなと思う。ティチャラを演じてくれて、ほんとうにありがとう。